私は日本人と韓国人(在日)は仲良くするべきという考えでしたが、
最近は考えが変わりました。
個々の考えだけではなく、公の場での韓国の態度が酷すぎるからです。
スポーツにおいても選手がマウンドに旗を立てる、妨害されたと根も葉もない口撃をいう選手。
他国のインターネットサイトに団結して韓国人がサイバーテロ攻撃に参加。
まだまだありますが、はっきり言って異常です。
http://news.livedoor.com/article/detail/4630378/
http://news.livedoor.com/article/detail/4629187/
こんな日本のことが嫌いな(日本の利益に反する思想を持つ)民族の
在日特権を認めている政府も許せません。
誰も知らない在日特権1
http://www.youtube.com/watch?v=Rip9dJTag6w
http://www.youtube.com/watch?v=AMzpCrZEvuw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=_U1YI3UHvmY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=eLcdx6ia7Sk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ei-BZWCcC4M&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=_qg5RaeBRMA&feature=related
このような特権を認めるべきではないし(他の外国人にも失礼)
外国人参政権も認めるべきではありません。
これからは民主・自民に関わらず、騙されないように国民が監視するべきだと思います。
みなさんはどう思いますか?
[スレ作成日時]2010-03-02 09:18:41
日本人と韓国人(在日朝鮮人)は仲良く出来ないのか?
6788:
匿名さん
[2013-11-06 13:15:26]
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6789:
匿名さん
[2013-11-06 13:31:50]
「大阪・焼跡闇市」 昭和50年 大阪・焼跡闇市を記録する会編 より
元北区・曽根崎防犯部長はこう回想する。『敗戦の傷跡もいえない曽根崎で、今日もまた、同胞一人が三国人の手で後ろ手にしばられ街頭を引きずられて行った。 明日はどうなることか、町の人たちは誰もがこの情景をながめて、歯をくいしばり涙をためて見送っていた。』 (「そねざき」曽根崎防犯協会 昭和41年) (中略) このような暴力化した社会にどう対処するか、暴力と強奪から民衆の一所懸命の生活をどう守りきれるか――この二点こそ戦後警察に求められ、期待されるところであった。 だが、こと「暴力」に対して警察・取り締まる側の姿勢には、どこか徹底を欠くものがあった。 面前で集団暴行を受ける民衆がいても、事をおこさぬ場合が再三あったし、 敗戦直後、日本人業者と三国人業者の利益をめぐっての騒ぎが頻発した時、警察は紛争鎮圧の用兵として、暗黙ながら暴力団の実力をアテにしている。 |
6790:
匿名さん
[2013-11-06 13:34:46]
「韓国のイメージ」鄭大均 より
終戦当時、国内には強制連行された人を含めて朝鮮人、中国人は200万以上いたが、 とくに兵庫に多く、昭和18年に13万5000人、47都道府県の7パーセント強を占め、大阪、東京につぐ3位という勢力をもっていた。 (中略) 彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。 通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。 善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。 こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。 腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。 警官が駆けつけても手も足もでない。 「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。 警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。 (中略) 彼らの行為を見聞きするごとにわたしは怒りにふるえていた。 彼らを制止し、阻止する者は一人としていないのだ。警察は無力化し、***は手をこまねいて目をそらす。 いったい、だれが街を自衛すればいいのだ。 (中略) 一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。 途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。 「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」 少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。 この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。 「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。 少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服(朝鮮人)の男たちだった。 |
6791:
マンション投資家さん
[2013-11-06 19:32:17]
ふつふつと殺意が沸いてくるね。
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6792:
匿名
[2013-11-06 22:15:01]
【社会】韓国籍の男が「通称(通名)」を悪用して携帯電話など160台を不正売買、逮捕…埼玉★7
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1383492980/ |
6793:
匿名
[2013-11-06 22:20:17]
朝鮮人による日本引き揚げ民間人強姦大虐殺
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284171137/ 在日朝鮮人1世の大半が密入国犯罪者 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1342341994/ 朝鮮進駐軍とはhttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1340957397/ |
6794:
匿名
[2013-11-07 00:39:28]
日本を狙う韓国カルト教団、新大久保コリアタウンにも!
新大久保コリアタウンにも 韓国カルト教団にご用心! 週刊文春 2013.11.01 07:00 http://shukan.bunshun.jp/articles/-/3287 |
6795:
匿名さん
[2013-11-07 01:28:33]
終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。
東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。 当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。 これを受けて述べたのが、マッカーサーの 「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。 1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。 その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。 不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。 すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか 「我々は先勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。 警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました 警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。 この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。 死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です) 逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。 勿論、「被害者側」としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する抗議としてであると述べています。 |
6796:
匿名さん
[2013-11-07 01:32:00]
たまりかねた警察が密かに***に頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。
最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその米国憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。 それでさすがに米軍も腹に据えかね、 日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、 はたまた北九州と言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、 重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。 我々はその火器のきらめきを間近に見た。 |
6797:
匿名さん
[2013-11-07 04:01:02]
【昭和26年03月22日衆議院法務委員会】
押谷委員 お尋ねをいたしますことは、昨朝起りました「朝鮮人」による「米兵」に対する暴行事件であります。 昨二十一日の午前三時半ごろに、浅草の千束町の朝鮮マーケット附近におきまして、 六名の「米兵」が「多数の鮮人」に取囲まれまして、集団的に暴力を加えられて、 一名は死亡する、二名は負傷する、自動車も破壞されるというような不祥事を起したのでありますが、 わが国の講和を前に控えて、今日日本の置かれたる国際的地位などから考え、 この時期を思いまするときに、まことに遺憾しごくな事件だと考えます。 |
6798:
匿名さん
[2013-11-07 06:37:22]
「シャブ! -知られざる犯罪地下帝国の生態-」 趙甲済著より
コリアン・コネクションの根本を掘り起こすのも今回の取材の重要な目標だった。 田村研究員の背景説明はかなり説得力があった。すなわち、第一次シャブ乱用時代に、在日韓国人が数多く関係したという事実である。 1954年のケースをみれば、検挙されたシャブ事犯のうち、韓国人は14%(在日韓国人は日本の人口の0.5%)だった。 密造犯のなかでは55%、密売犯のなかでは21%が韓国人だった。 鄭銀宗ら多くの韓国人密造技術者たちが韓国に逃げ出し、密造技術を広めた史実は第一章で述べたとおりである。 暴力団の世界にも韓国人は多い。 民族差別の問題を刺激するおそれがあるため、詳しいことは書き控えるが(中略)彼らは親戚のある韓国によく行き来することができ、シャブの密輸ルートを構築するのに有利な立場にいたというのが田村研究員の説明だった。 三国人⇒韓国⇒北朝鮮、昔も今も日本人の身体を蝕む覚せい剤の影にコリアン・コネクションあり。 |
6799:
匿名さん
[2013-11-07 06:40:28]
「コリアン世界の旅」 より
いま全国に約一万八千軒あるパチンコ店のうち、在日および帰化者二世・三世を含む)が経営する店の割合は、六割とも七割とも言われる。 三軒に二軒は、オーナーが韓国・朝鮮系ということなのである。 パチンコ台の製造メーカーにも、最大手の「平和」を筆頭に、韓国・朝鮮系の経営者が名を連ねている。 (中略) パチンコが全国に広まり大衆的な人気を博するのは、明らかに日本の敗戦直後からである。 身近に安価な娯楽がなかったためという理由ばかりではない。 焼け跡闇市の時代の庶民を何よりも魅了したのは、景品に出されるタバコだった。 配給制で常に不足がちなタバコが、強力な呼び水となって、戦後最初のパチンコ・ブームを巻き起こしたのである。 かくしてパチンコ店は雨後の筍のように増えていくのだが、 当時、開店資金をどのようにして工面したのか、その経緯が在日自身の口からおおやけにされることも、 私の知るかぎり絶無と言ってよかった。 『こんなことを話す人間は、ほかにおらんだろうね』 と前置きして、キムが語る。 『闇市で儲けて、それからパチンコ(店経営)に走った人が多いんですよ。じゃあ闇市で何をして儲けたかというと、結局、ヒロポンと贓物故買(ぞうぶつこばい)だよね』 密造した覚醒剤を売りさばいたり、盗品の横流しをしたりして、短期間のうちに大金を作り、それをパチンコ店開業に振り向けたというのである。 『そういううしろ暗い過去がなかったら、カネなんていうものはそんなに貯まらんですよ。うしろ暗い過去があるから、人にも言われんわけでね』 ※贓物故買とは = 窃盗、詐欺などの犯罪行為によって不正に得た物品を売買すること) (中略) 戦争直後、韓国・朝鮮人がいくらかの元手ができるとすぐパチンコ店経営に乗り出したのは、 日銭が確実に入り、その額がほかの廃品回収や焼肉といった職業よりも格段によかったからである。 一日の売り上げだけを見ても、数字のゼロが一つかニつ多かったのだ。 |
6800:
匿名
[2013-11-07 07:13:14]
サザンの歌じゃないが、教科書は現代史をやる前に時間切れ、そこが一番知りたいのに。
埴輪や土器を教えるより↑をきちんと教えなきゃな。 |
6801:
匿名さん
[2013-11-07 08:19:26]
「体験で語る解放後の在日朝鮮人運動」 姜在彦
(1951年1月 非合法的に結成された民戦に対する日本共産党の指導方針が出され) 在日朝鮮人は日本の中の少数民族であり、日本革命の同盟軍であるとされたわけです。 日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できないとされたわけです。 だから我々は、日本共産党員として、まさに日本の革命をやることが、 朝鮮の革命と在日同胞の地位向上に寄与することになるんだと考えたわけです。 (中略) 少数民族は独自の中央組織を持つ必要はない、各地域の組織に属して日本の組織と連帯し、 日本の革命を遂行すべきだ、と言うようなことを述べています。 朝連(在日本朝鮮人連盟)が解散させられたのち、 皆、地域の朝鮮人協会であるとか、学校のPTAにはいれ、ということが言われていました。 そしてPTAを革命化せよ、地域を革命化せよ、という、読み方によっては、朝連解散を喜んでいるようにも取れる方針でした。 少数民族の組織というものはすべて末端の組織において日本人と連帯しながら、まず第一に日本革命を遂行するのに大一義的目標をおくべきだ、というものでした。 大阪では吹田事件、東京では宮城前の血のメーデー事件が起こることになります。 デモ隊が流れ込んで宮城前を血に染めたこの事件ではかなりの人が負傷したり、逮捕されたりしました。 先頭に朝鮮民主主義人民共和国の旗が翻っています。 警官隊の壁を実力突破する先頭に立ったのは朝鮮人なんです。 それから名古屋の大須事件ですね。これらはみな、先ほどの方針から出ているわけです。 みんな本気でパルチザン闘争をやるつもりだったわけです。 当時アジアの共産党は「中国革命」を守るのが国際主義的義務と言われていましたから。 そこで日本も本気でやろうとしたわけです。 |
6802:
匿名さん
[2013-11-07 09:09:18]
金素雲氏自伝より
日本人所有の家を借りたなら、家賃は一切払わなくてもよいというのが、その当時(昭和の初期―筆者注)コリアン同胞の間では常識化していた風習だった。 「お前らは国まで盗んでいったじゃないか。家賃ぐらい何だ!」――こちらにはこんな腹があったが、引っかけられた日本人の側では恨み骨髄にならざるを得なかった。 日本人はコリアンから家賃をもらうどころか5,6ヵ月分の家賃に当たる金を<立退料>という名目で払わなければならなかった。 こんなとき、その仲介の役割を果たすのが、いうなれば叔父の職分だった。 (同胞が集団居住する町には、こんなブローカーが必ず何人かいた) 1,2年ただで住んでは<立退料>をせしめて家を空けてやることもあったが、時には引っ越した次の日に大家から立退料を取ってまた引っ越していく、そんな場合もあった。 その立退料の半分ぐらいにあたる金が叔父のようなブローカーの懐に入ってくる。 もちろんこれは4,50年前の昔話ではあるが、こんなやり口がその後長い間い年月を通じて、大多数の日本人の生活感情の底に<チョーセンジン>を敬遠し蔑視する後遺症の種となったことも事実である。 |
6803:
匿名さん
[2013-11-07 09:15:01]
「中坊公平・私の事件簿」(中坊公平2000.11.22)の中に、一つ在日の犯罪が載っている。
借金を返済しない在日韓国人を法律的に追いつめたところ、中坊弁護士が暴行を受けたのである。 後頭部を打ち付けられて怪我した中坊氏。 「お前こんなことしていいと思ってるのか。こっちは頭に傷を負って出血してるんやぞ。」 すると、彼の連れてきた暴力団風の男は予想もしない行動に出ました。私の目の前で「お前、俺をやったな」と 言いながら、自分で自分のカッターシャツを両の手で力任せに引き裂き、ばーんとボタンを弾き飛ばしたのです。 そして、「俺かてお前にこうしてやられてるやないか」と言う。 その後、警察に行くと在日側の弁護士に暴行で訴えられた。幸いにも証拠と証人があり、冤罪が証明されたの ですが、街宣車が家まで来て「民族差別を許すな!」。 これじゃあ、弁護士もいやになるだろう。 |
6804:
匿名さん
[2013-11-07 11:03:45]
外国人参政権、外国人住民基本法、人権救済設置法案 等 反対
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6805:
匿名さん
[2013-11-07 13:48:36]
『台湾人と日本精神』 蔡焜燦 より
中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。 しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、 とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。 それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。 他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。 日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。 敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。 (中略) この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、 40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。 『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』 がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。 そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。 もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。 しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。 そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、 あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。 『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった 上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。 |
6806:
↑
[2013-11-07 17:59:12]
6800だが、連投は如何なものかと思うよ。
過ぎ足るは及ばざるが如し。 度が過ぎると辟易する。 |
6807:
匿名
[2013-11-07 18:05:56]
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昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。
そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。
新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。
ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。
私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。
心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。
また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。
多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。
若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。
あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。
それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。
弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。