物件価格の高騰により、デベロッパーは都心の定義を拡げざるを得ない状況が続いています。理由はもちろん、買い手に都心だと思わせれば高値の言い訳になるからです。
さて、東京都によると都心は5区、故石原都知事が提唱したセンターコアは4区、不動産マーケットの指標となるレインズは都心を5区と定義しています。
いずれも文京区や江東区は含まないのが現状ですが、前述した理由により、文京区や江東区を都心に含めた都心6区・都心7区という商業的要素の強い造語がデベロッパーにより作られ、提示されることも出てきました。
他の区の話題でも構いません。このスレは、都心の定義をどこまで拡げてよいかを問うスレです。
[スレ作成日時]2022-04-16 10:43:31
【城北】文京区・江東区は外周区?都心区?【城東】
1913:
匿名さん
[2022-06-18 15:05:25]
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1914:
匿名さん
[2022-06-18 15:08:42]
http://michikusa-ac.jp/archives/1059420.html
こちらにも、この崖下から柳町仲通り商店街のあたりまでの一帯が「新開地」で、大正期に白山花街が建設されるまでの濫觴(らんしょう)となりました。と記載があるので、小石川柳町はそういう街だったんでしょう。 まぁいわゆる繁華街ですね。そりゃ若い軍人が後楽園に沢山いた訳ですから、そういう産業も必要になるでしょうよ。 |
1915:
匿名さん
[2022-06-18 15:10:28]
>>1912 匿名さん
まあ全くなかったとはいえないかもしれないが、少なくともすぐに潰れたという事実を見る限り、柳町がその手の風俗営業には適さない町であったことは間違いないな。 |
1916:
匿名さん
[2022-06-18 15:13:51]
>>1914 匿名さん
その表現は他の一次資料と矛盾すると思うけどね。 |
1917:
匿名さん
[2022-06-18 15:26:35]
まとめると、主に軍人相手の商売として、後楽園近くの歓楽街として丸山福山町とその流れにある小石川柳町あたりまでが私娼窟として繁栄したんでしょう。ただ、小石川柳町は歓楽街の中心ではなく、あくまで外れであったので廃れて行った感じですね。
そして、その後、白山三業地として正式に整備されたという流れですね。 |
1918:
匿名さん
[2022-06-18 15:28:39]
長文だらけでよく読んでないのですが、
三業地、娼窟、という言葉の意味がわかりません。 小石川にあったと皆さんが仰っているようですが、 これは一体何をするところですか? |
1919:
匿名さん
[2022-06-18 15:33:43]
>>1918 匿名さん
何をするところですよ。 |
1920:
匿名さん
[2022-06-18 16:40:24]
>>1917 匿名さん
>丸山福山町とその流れにある小石川柳町あたりまでが それなんだけどね、明治40年の東京名所図会には丸山福山町は邸宅が建ち並んでいるという表現で、近年漸く町家と化せし所あり、と書かれていてねえ、とてもにごりえの舞台とは思えないんだよね。(実は私も丸山福山町の私娼街ではないかと思ってたので意外) 樋口一葉のにごりえの舞台は指ヶ谷の八軒矢場と東京名所図会にも銘酒屋の記載がある掃除町の指ヶ谷よりの地域がそれなのかなあ、と思ってます。 |
1921:
匿名さん
[2022-06-18 16:48:25]
陸軍造兵廠は軍事基地だと勘違いしている人もいるかもしれないけれど、当時の先端技術の粋を集めた兵器を作る巨大が工場兼研究施設なので、小学校しか出ていない職工から留学帰りの高級技術者までいたはず。
おそらく造兵廠に近い場所には高級職員が、遠いところには職工が住んでいたんじゃないかと推測する。最高機密に触れる立場だから当然上から下まで給与待遇はよかったに違いない。当時の後楽園近辺がやたら景気良さそうなのはそういう事情があるんじゃないかと思う。 |
1922:
匿名さん
[2022-06-18 17:24:56]
白山通り沿いの谷底低地エリアは歓楽街、三業地として発展したが、陸軍造兵廠の小倉移転が大きな岐路になったのは間違いなさそう。一番の得意先を失うことに。
その後、跡地に野球、競馬、競輪、格闘技など男の欲求を満たす遊興施設が出来上がった訳だけど、こう考えると水道橋から白山にかけては男の浪漫ロードって感じだね。そして台地には金持ちが住む、というわかりやすい構図。 |
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1923:
匿名さん
[2022-06-18 17:30:56]
>>1922 匿名さん
そういや神保町もそういうエリアだから、神保町から白山までが、男の欲求を満たすために形成された街と言えそうね。神保町あたりも大分綺麗になったけど、水道橋に近づけば近づくほど、怪しさが増すからね。 それだけ陸軍造兵廠の影響力は大きかったんでしょう。 |
1924:
匿名さん
[2022-06-18 20:08:26]
?
何をするとは? もう一度質問しますが、皆さんが仰っている小石川にあった三業地、娼窟、というのは何をする場所でしょうか? |
1925:
匿名さん
[2022-06-18 20:10:48]
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1926:
匿名さん
[2022-06-18 21:01:04]
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1927:
匿名さん
[2022-06-18 21:08:55]
それに神田神保町は法科大学が近隣に多く作られたため、古くなった教科書を売って新しい教科書を買うという学生のニーズが古本屋街の形成に大きく寄与した。学生町として発展したから、食欲を満たす店は多くあったが(今も多いけど)、性欲を満たす方がさほど得意ではなかったように思うよ。学生はそんなにお金持ってないからね。
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1928:
匿名さん
[2022-06-18 21:14:12]
三菱の賃貸住宅経営はどうやらあまり利の大きなものではなく、目先の利益をあげることよりも東京という地の無限の可能性を広げるという、男のロマン?あるいは「所期奉公」の信条にのっとった公益事業ということも言えるだろうね。それを男の欲望とかなんとか言ったら当時の三菱マンが列を成してドロドロと化けてでるかもよ。
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1929:
匿名さん
[2022-06-18 21:58:58]
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1930:
匿名さん
[2022-06-18 22:03:35]
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1931:
匿名さん
[2022-06-18 22:08:55]
>>1929 匿名さん
>形容し難い雰囲気 クトゥルフかよ(笑 白山通りは道も広いし街路樹も美しい。あなたの頭の中にドロドロとした怨念でもないとそういう変な感じは受けないけどね。 確かに小石川築地という埋立地もなかったわけじゃないが今の小石川ではないし、それもかなり狭い範囲だってことだよね。おそらくそこに建てるとヤバいというのは江戸時代からわかっていたから馬場になり、後に水田になったわけで。そこに無理して立てた新開地が壊滅的な被害を受けたのはいわば必然。 他の場所はまだマシだったのにね |
1932:
匿名さん
[2022-06-18 22:10:37]
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少し長めに引用しようか
「明治廿七八年頃よりは、指ヶ谷町一四六番地の一角に、俗称八軒矢場と称する銘酒店遊戯所十数軒散 点、孰れも相応の繁昌を来し、尚同所より南へ約三丁を隔てた柳町二十二番地の一角にも三四軒の開業を見たが、上記八軒矢場の繁昌に及ぶ可くもあらず、何時の間にか其影を失ひ、八軒矢場のみ依然として隆盛を極め、不頼の徒、不良の徒の横行闊歩を見るに至ったのである。」
要するに柳町近辺に住んでいる人はそういう変な店には行かないし、白山近辺にあった低所得者向けの集合住宅に住んでいる人もそういう金持ちが住んでいるキラキラしたところは遠慮して近寄ろうとしなかったってことだよ。アンダスタン?