売主:三井不動産レジデンシャル
施工会社:清水建設
階数:37階建
所在地:港区浜松町一丁目
交通:山手線『浜松町』駅徒歩5分
パークコート浜離宮ザタワー
所在地:東京都港区浜松町一丁目3、4、5番地(地番)
交通:山手線 「浜松町」駅 徒歩5分 、都営大江戸線 「大門」駅 徒歩5分
都営浅草線 「大門」駅 徒歩5分 、都営三田線 「御成門」駅 徒歩8分
間取:1R~3LDK
面積:30.02平米~124.56平米
売主:三井不動産レジデンシャル
施工会社:清水建設
管理会社:三井不動産レジデンシャルサービス
【物件名を修正し、物件情報を追加しました 2016.2.24 管理担当】
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【パークコート浜離宮ザタワー】現地レポ!三井不動産 × 港区浜松町 × 37階建てタワマンの浜離宮ビュー
https://www.sumu-log.com/archives/2528
【浜松町汐留界隈】モモレジの名作マンション訪問【2016Vol.12】
https://www.sumu-log.com/archives/2636
[スレ作成日時]2015-10-03 23:32:26
パークコート浜離宮ザ タワー[旧:浜松町一丁目地区第一種市街地再開発事業]ってどうですか?
14178:
匿名さん
[2017-10-01 13:38:01]
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14182:
匿名さん
[2017-10-01 13:52:56]
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14183:
匿名さん
[2017-10-01 13:53:24]
地権者は駆逐済み
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14184:
匿名さん
[2017-10-01 13:54:04]
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14187:
匿名さん
[2017-10-01 13:56:05]
眺望の素晴らしさが素敵。
![]() ![]() |
14188:
匿名さん
[2017-10-01 13:56:32]
再開発前の土地の説明は重要事項の説明で一番詳しく話があります。地質検査とか検査を徹底的にしており結果を見せられました。このあたりは大手デベは安心ですよね。
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14189:
匿名さん
[2017-10-01 13:56:56]
交通の弁もハンパない。
![]() ![]() |
14190:
匿名さん
[2017-10-01 14:00:42]
>14187
それ5階くらいからの眺望ですか?素敵ですね。20階と30階くらいからのもお願いします。 |
14191:
匿名さん
[2017-10-01 14:02:08]
>>14189 匿名さん
線路が多くて近い |
14192:
匿名さん
[2017-10-01 14:04:34]
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14193:
匿名さん
[2017-10-01 14:06:37]
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14194:
匿名さん
[2017-10-01 14:10:57]
>>14190 匿名さん
ツインパークスの15階位相当だろ。ここが山の上でなければ5階位だなどありえん。 |
14195:
匿名さん
[2017-10-01 14:12:04]
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14196:
匿名さん
[2017-10-01 14:13:12]
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14197:
匿名さん
[2017-10-01 14:17:52]
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14198:
匿名さん
[2017-10-01 14:19:39]
浜松町1丁目の港区立エコプラザ前に、「福沢・近藤両翁学塾跡」 の碑があります。実際に両者の学塾があったのはこの碑から北へ通り を一つ隔てたところ(現浜松町1-3~4)とされており、かつてこの地
は「芝新銭座」と呼ばれていました。 その由来は、寛永13年(1636)にこの地に江戸における最初の銭貨鋳造所が設けられ、 寛永通宝が鋳造されたから、と伝えられています。芝の鋳造所は元文年間(1736~1741) ごろに姿を消したとされていますが、後世まで「新銭座」として地名が受け継がれ、旧町名 は「芝新銭座町」といいました。 福沢諭吉が安政5年(1858)築地に開いた蘭学の塾を、芝新銭座の江川太郎左衛門の長屋に移したのは慶應4年 (1868)のことです。年号にちなんで慶應義塾と名づけられ、ここで福沢は「独立 自尊」の精神を教えました。わが国の洋学発祥の地として記念すべき場所です。 芝新銭座の塾には多くの人材が集まり学生が激増したため、明治4年(1871)に現 在の慶應義塾大学がある島原藩邸跡(三田)に移転し、芝新銭座の跡地は、海軍将校を 養成する学校であった攻玉社を経営していた近藤真琴がゆずりうけました。その後大 正14年(1925)、攻玉社も品川区大崎へ移転し、この地には記念碑が建てられました。 震災や戦災のためにその記念碑は失われてしまいましたが、昭和40年(1965)に 両校関係者有志によって、現在の記念碑が再建されました。 明治維新後の、近代日本の夜明けの時代における両塾の精神が記された碑は、か つて多くの人が学んだこの地にたたずみながら、静かに現代の潮流を見守っている ようです。 |
14199:
匿名さん
[2017-10-01 14:24:12]
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14200:
匿名さん
[2017-10-01 14:25:39]
芝大門と言えば徳川歴代将軍のうち6人の将軍の墓があり、徳川家康が菩提寺とした増上寺で有名です。
江戸城から北東の方角、陰陽道で言うところの鬼の出入り口(鬼門)に当たる場所に、こちらも6人の将軍が眠る上野寛永寺があります。芝増上寺は鬼門の正反対の南西の方角、すなわち裏鬼門の場所に置かれています。 増上寺の御本尊は徳川家康が奉納した通称「黒本尊」で、1月、5月、9月の15日、年に3回だけ御開帳されます。この黒本尊は平安時代の天台宗の僧、恵心僧都源信の作と言われ、もとは源氏の守り本尊でした。その後、平清盛や源義経の手を経て、最後に徳川家康と運命的な出会いをしたのです。家康はこの御本尊と共に戦に出陣し、勝利したので「勝運黒本尊」として知られ信仰を集めるようになりました。 その増上寺の程近くに、創建千年以上と言う長い歴史を誇る芝大神宮があります。この神宮もまた増上寺や徳川家康と深い関係があるのです。 芝大神宮は寛弘2年(1005年)、伊勢神宮の分霊を受け今の増上寺がある場所に造られました。徳川家康は江戸入府の時、また関ケ原出陣の際にもこの神宮に参拝し勝利祈願をしています。慶長3年(1598年)増上寺建立に伴い現在の場所に移転してからも歴代の将軍の崇拝と庇護を受けました。伊勢神宮の分霊神宮として「関東のお伊勢様」と呼ばれ、お伊勢参りに行けない庶民の信仰も集めたようです。 |
14201:
匿名さん
[2017-10-01 14:27:05]
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14202:
匿名さん
[2017-10-01 14:28:45]
江戸時代
自然豊かな海辺の漁村 江戸時代、干潟であり、まだその土地すらありませんでした。『御府内備考』には「海上の番船であるとか城米引舟の役などを引き受け、海岸よりの網干城、漁村として下賜されていた」という記事が見られます。 明治時代 鉄道開通と行楽地としての発展 明治5年に新橋~横浜間に鉄道が開通すると、発着地も近く風光明媚な土地の将来が注目されました。温泉旅館や魚問屋から転業した活魚料理の料亭・茶店が軒を連ね、海水浴場、花火や潮干狩りなどの行楽地、花街として賑わっていきました。 大正~昭和初期 埋め立て工事と新産業の発展 明治後半から始まった東京港湾の埋め立て拡張が進んだことで一体の景色も急変しました。その後、関東大震災の東京復興の資材運送などで賑わい、生産業の移転や新興産業も増え、新たな街としての活気がましたようです。 戦後 花街の衰退 戦争のために、疎開、移転していた花街も戦後には復活しますが地域の建物は東京都港湾局の所轄となり、港湾労働者のための宿泊施設として管理されるようになりました。この頃から港町の産業・住宅地へと性格を変えていくのです。 現在 高層化する建物 高度成長期に入ると木造の和風建築がコンクリートのビルへと変わり東京湾も近代化・機械化し、港町としての機能も弱くなりました。住民も郊外へと移転し、オフィス街へと変わりました。 |
広い部屋がもらえた地権者は多分20にも満たないだろうけど、それなりの身分だから問題なし。
結果支障なし。〜fin〜