売主:三井不動産レジデンシャル
施工会社:清水建設
階数:37階建
所在地:港区浜松町一丁目
交通:山手線『浜松町』駅徒歩5分
パークコート浜離宮ザタワー
所在地:東京都港区浜松町一丁目3、4、5番地(地番)
交通:山手線 「浜松町」駅 徒歩5分 、都営大江戸線 「大門」駅 徒歩5分
都営浅草線 「大門」駅 徒歩5分 、都営三田線 「御成門」駅 徒歩8分
間取:1R~3LDK
面積:30.02平米~124.56平米
売主:三井不動産レジデンシャル
施工会社:清水建設
管理会社:三井不動産レジデンシャルサービス
【物件名を修正し、物件情報を追加しました 2016.2.24 管理担当】
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【パークコート浜離宮ザタワー】現地レポ!三井不動産 × 港区浜松町 × 37階建てタワマンの浜離宮ビュー
https://www.sumu-log.com/archives/2528
【浜松町汐留界隈】モモレジの名作マンション訪問【2016Vol.12】
https://www.sumu-log.com/archives/2636
[スレ作成日時]2015-10-03 23:32:26
パークコート浜離宮ザ タワー[旧:浜松町一丁目地区第一種市街地再開発事業]ってどうですか?
14087:
マンション掲示板さん
[2017-09-30 21:25:38]
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14088:
匿名さん
[2017-09-30 21:28:51]
大名屋敷跡地と造幣局跡地のコンボですか。
ますます文句のつける余地がなくなってまいりました。 |
14089:
匿名さん
[2017-09-30 21:32:05]
3Aが畑だった時代にすごいですね
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14090:
匿名さん
[2017-09-30 21:36:30]
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14091:
匿名さん
[2017-09-30 21:43:13]
ネガさんネガさん、もう今さら事実をねじ曲げようとしても、無駄、やで。
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14092:
匿名さん
[2017-09-30 21:44:22]
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14093:
匿名さん
[2017-09-30 21:47:47]
パークコート浜離宮ザタワーの場所が、こちらの江戸時代に描かれた浮世絵になります。 ここが大名屋敷が立ち並ぶ場所だったことがわかると思います。 ●「江戸勝景 芝新銭座之図」絵・歌川広重 版元・川口正蔵 天保6年から9年(1832~1838)。 ●歌川広重の「江都勝景ー芝新銭座之図」である。この江都勝景は江戸市中の大部を占めた大名屋敷を描いたシリーズである。当初は10枚の予定であったらしいが、上の絵以外に「江都勝景 日比谷外之図」萩藩(長州藩)三十六万九千石の毛利家上屋敷、「江都勝景 山下御門之内」肥前国佐賀三十五万の石鍋島家上屋敷などが知られている。江戸城側の大名小路や愛宕下の大名小路は、将軍家お膝元の江戸っ子自慢で、江戸にしかない風景である。浮世絵には、江戸市中を歩く旗本や大名行列を描いたものが多数あり、参勤交代で帰国する勤番侍のお土産として人気があったようだ。豪壮な大名屋敷が建ち並ぶ江戸は、地方の人達の憧れであった。 ![]() ![]() |
14094:
マンション検討中さん
[2017-09-30 21:49:52]
そうですよね。
このスレで安全だと言い張ってる人は、 たとえば普段の生活でO157に感染する確率は0に近いからと http://www.ypbag.com/gallery-87-grid.html、 ユッケを避ける人はただネガるネタがそれしかないんですよとでも 主張するんでしょうかね。 |
14095:
匿名さん
[2017-09-30 21:56:55]
14094さん
おっしゃっている意味が全く理解できないのですが。 |
14096:
匿名さん
[2017-09-30 21:58:29]
新銭座は慶應義塾の発祥ですね。ジョン万次郎もここに住んでいました。 「福沢屋諭吉」が誕生したのは、明治2年のこと(この連載の第2・3回目をご参照のほど)。その当時、福沢諭吉と慶應義塾は芝新銭座(しばしんせんざ)に居を構えていた。それまでは特定の名称がなかったいわゆる「福沢塾」に「慶應義塾」と命名されたのがこの新銭座の地で、時に慶応4年(明治元年)。その敷地400坪余に100人程の塾生を収容できる塾舎が建てられ、本格的な英学塾が発足した。戊辰(ぼしん)戦争も一段落すると、政府による教育制度が未整備な中で慶應義塾の塾生数は次第に増加を続け、塾舎の増築や他の土地での分塾化といった対策ではとても対応できなくなってしまった。 |
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14097:
匿名さん
[2017-09-30 22:01:25]
結論は割高ってことで、議論終了
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14099:
匿名さん
[2017-09-30 22:22:37]
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14100:
匿名さん
[2017-09-30 22:23:23]
ゼニを作っていた土地。
金運最高の土地。 入居者は勝ち組確定ですね。 |
14101:
匿名さん
[2017-09-30 22:25:33]
ここ買える人うらやましいなー。
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14102:
匿名さん
[2017-09-30 22:44:23]
福沢諭吉も いいね!
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14103:
匿名さん
[2017-09-30 22:50:12]
まとめると、ここは大名屋敷と諭吉のコンボの跡地ということが判明しました。
さらに磐石、雨降ってなんとやら、ですね。 |
14105:
匿名さん
[2017-09-30 22:50:36]
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14106:
匿名さん
[2017-09-30 22:58:53]
ここまでネガ達を憂鬱にさせる物件も珍しいな。
彼らを不安にさいなませ、毎日スレに縛り付けておく事ができる今の状況を想像するだけでメシがウマくなるな。笑い |
14107:
匿名さん
[2017-09-30 23:07:01]
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14108:
匿名さん
[2017-09-30 23:21:05]
江戸時代の古地図と照合しましたが半分大名屋敷、 半分新銭座丁(慶應義塾の発祥地)でした。 すごい土地ですね。欲しくなった。 ![]() ![]() |
新銭座丁だとしたら、
1868年の慶應義塾のルーツ、
そして、ここにジョン万次郎が住んでいたのだよ。
慶應義塾の資料より
新銭座の木村摂津守
アメリカから帰国した福澤先生は、万延元年冬に中津藩中屋敷の長屋を引き払って、芝新銭座の借家に移転し、文久3年秋までここに住んでいた。この新銭座の塾は、場所を含めて詳細は不明である。
木村摂津守は、長崎伝習所取締取締役の任を終えた安政6年6月から慶応4年7月まで新銭座に住んでいた。明治34年3月3日付「時事新報」に木村の筆による『福澤先生を憶ふ』に次の一節がある。
「余が新銭座の宅と先生の塾とは咫尺(しせき)(近い距離)にして、先生毎日の如く出入せられ何事も打明け談ずるうちに、毎に幕政の敗頽を嘆じけ
る。」
文久2年の『御府内沿革図書芝海手之内當時之形』という地図では「新銭座町」の向かいに「木村摂津守」の名が確認できる。現在の浜松町1丁目2番地に当たる場所である。慶応4年2月に慶應義塾は新銭座に移転するが、木村摂津守宅とは30メートル程の距離である。
また、通弁方として咸臨丸で渡米したジョン万次郎も新銭座に住んでいた。万次郎はペリー来航の嘉永6年に江戸に召されて、深川にあった洋式砲術家江川太郎左衛門の邸内に住んだが、安政4年春、江川が新銭座の海際に移転したのに伴って、万次郎も居を移した。『江戸切絵図芝口西久保愛宕下之図』で「江川太郎左衛門鉄砲調練所」と示される位置は、新銭座の慶應義塾の目と鼻の先である。万次郎は、明治2年深川砂村にある土佐藩下屋敷に移るまで、江川邸内に居住していた。