「何が何でも文京区」という人が結構いらっしゃいますが、どこがいいのか教えてください。さまざまな学校があり子どもの教育環境にはいいというのはわかりますが、それ以外の良さ、そこまでこだわる理由がわからないのです。
[スレ作成日時]2009-01-26 00:52:00
文京区の住環境はどうですか?
7711:
周辺住民さん
[2022-09-04 15:32:30]
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7712:
マンション検討中さん
[2022-09-04 15:42:28]
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7713:
周辺住民さん
[2022-09-04 17:22:30]
>>7712 マンション検討中さん
それは既知のことかと思いますが、切通坂を上がって江知勝辺りまで、という話は聞いたことがありません。7711にも書きましたが古地図を見る限り、湯島天神から見て、北東、東、南東、南、南西くらいまではにぎわっていたはずですが、北、北西である切通坂沿いは武家地、寺社地になっているんですよ。現状にぎわっていたっぽい名残もありませんし。 |
7714:
マンコミュファンさん
[2022-09-04 17:35:49]
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7715:
匿名さん
[2022-09-04 19:27:28]
江知勝って名前からしてエッチですもんね^^;
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7716:
周辺住民さん
[2022-09-04 19:36:53]
>>7714 マンコミュファンさん
ホテルがあったのも知っていて想像もできますが、実際はどうだったのか事実が知りたいだけなんです。初めて聞いた話なので。 そのホテルの場所は、江戸時代は湯島天神の土地です。シンスケの店主だったか客だったかに聞いた話では、自動車がない時代は、切通坂で荷物を運ぶ人夫がいて、坂下の居酒屋?は多くの人夫でにぎわっていたと聞きました。「切通坂」というくらいなので、坂の両脇は擁壁っぽくなっていて建物は存在しなかったのかなと想像しています。 |
7717:
匿名さん
[2022-09-05 04:29:36]
>>7711 周辺住民さん
明治40年に出版された東京名所図会 本郷区之部によると湯島小学校のある湯島新花町(18頁)、江知勝のある湯島切通坂町(28頁)には待合や貸席業の記載はない。芸妓業や待合・貸席業の記載があるのは湯島天神町(25頁)だけだ。切通坂町には江知勝や鳥又などの牛肉や鳥肉の料理を食べさせる飲食店、飴屋、呉服屋、風呂屋など花街に来る客やそこに働く芸妓などを相手にした店がならんでいたのだろうと思われる記載があるが、当時は今でいう風俗営業は特定の町内に限定されていた。江知勝のある湯島切通坂町は厳密な意味での花街ではないので、前言は撤回したい。 ちなみに現在の湯島の繁華街のあるところは当時湯島天神下同朋町(28頁)といって芸妓が多数住んでいて寿司屋などの飲食店があったようだね。 https://www.lib.city.bunkyo.tokyo.jp/dl/index_831.html |
7718:
匿名さん
[2022-09-05 05:00:24]
>>7716 周辺住民さん
切通坂は下谷から湯島台へ江戸時代に切り通した坂という記載がある 近隣には大根畑があったとか書かれているので、のどかな場所だったようだね。 花街の中心街は池之端なので、湯島はかなり中心街から外れた場所にある。ラブホテルのあったところは元々旅館や下宿があった場所のようで、待合などの跡ではないようだ。 |
7719:
匿名さん
[2022-09-05 07:22:27]
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7720:
匿名さん
[2022-09-05 07:32:10]
>>7719 匿名さん
その言葉の通りの大根畑だよ(笑 ややこしいことに湯島小学校のあたりには湯島新花町という町名があって、ここには野菜畑が広がっていて栽培している作物の花が咲いていたことから花町となったようだね。 |
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7721:
周辺住民さん
[2022-09-05 07:58:36]
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7722:
匿名さん
[2022-09-05 08:43:01]
寺社の門前町に花街ができるのは割と普通のことで、湯島は高台の傾斜地だったことから眺めが良かったために花街として発展したのではないかという指摘がある。門前町は寺社の領地内にあってその地代収入が寺社の重要な収入源になっていたことや奉行所の管轄の問題もあって、門前町での風俗営業は比較的容易だったようだ。
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7723:
匿名さん
[2022-09-05 08:43:23]
湯島には、新潟名物のへぎそばを売りにするお蕎麦屋さんが多かったり、あの老舗居酒屋のシンスケで出す日本酒は秋田の両関です。岩手屋はその名の通り、岩手の名産が出ます。湯島は上野駅に近いこともあり、東北や新潟から移り住んだ人が多いのでしょうか?
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7724:
匿名さん
[2022-09-05 09:00:40]
ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにいく
と啄木がうたった上野駅のそばですしね... |
7725:
名無しさん
[2022-09-05 09:18:35]
>>7724 匿名さん
あの石川啄木も、朝日新聞社からの夜勤帰りに、上野広小路の停車場で最終の都電を逃した日は、切通坂を上って帰宅したという碑が湯島天満宮の石垣にありますね。歴史の詰まった場所なんですね。 |
7726:
匿名さん
[2022-09-05 09:29:25]
湯島は実は日本の近現代の経済とのつながりが深いエリアでもあります。湯島にあるYONEX本社の辺りには渋沢栄一の邸宅があり、湯島天神の近く(煉瓦塀の辺り)には三菱の岩崎弥太郎も一時期住んでいました。ホンダの創業者の本田宗一郎は若き頃、湯島のバイク整備工場で見習工をしていました。これだけのビッグネームとかかわりのあるエリアが湯島なのです。
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7727:
周辺住民
[2022-09-05 13:31:24]
副都心が整備されるまでは、山手線の東京駅付近から上野駅付近を結んだ線が東京の都市軸でした。中央通り上には市電1号系統も通っていて、まさに東京の中心軸でした。
そこに隣接する湯島ですからね。 |
7728:
匿名さん
[2022-09-05 14:03:40]
feel the 高齢化
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7729:
通りがかりさん
[2022-09-05 14:10:19]
湯島湯島ほんとしつこいね。文体からして同じ人だろうけどうざい。
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7730:
匿名さん
[2022-09-05 14:42:24]
練馬ナンバーだと埼玉県民に馬鹿にされます |
> 昭和の初めぐらいまではおそらく江知勝(今のルジェンテ文京湯島)のあたりまで広がっていたであろう歓楽街
ってソースはあるのでしょうか。古地図を見ると、切通坂の下は湯島切通町ですが、坂を上ると両側が湯島天神と根生院(後に豊島区に移転)となっていて、街ではなくなっています。湯島天神の南や東はにぎわっていたのですよね。
https://map.goo.ne.jp/history/edo/map/14/