あの頃は、貧しかったけど、楽しくて夢があった。
町内会で集まると、「家に電話が付いた!!」「冷蔵庫買った!!」と、日に日に生活が進化していくことが喜びだった。
私は、人形アニメが好きだった。テレビ番組「ちろりんむら」、「ブーフーウー」。
親に連れられて、木馬座の「ピノキオ」を観に行ったとき、子供達がみんな立ち上がって、大きな声で声援した。親達はみんな紙テープ投げて盛り上がった。
今は両親も亡くなり、育った町も開発されて、幼なじみもどこへ行ったやら。
昔の良き時代を語れる相手もいないので、スレを立ててみました。
昭和30年代、覚えていることを話しましょう。
[スレ作成日時]2009-02-18 00:36:00
昭和30年代を語ろう
82:
匿名さん
[2009-02-23 21:01:00]
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83:
匿名さん
[2009-02-23 21:14:00]
どなたか「太平原児」のヒロインの名前、覚えていませんか?快活な謎の少女です。作者は小松崎なんとか先生。
もう一つ。日本版ジャングルブック。ゴリラ?に育てられた少年シンゴが、ジャングルで大活躍する。こちらのヒロインの名はスイコさん。 少年が危機になると、いきなり「アメン、アメン、アメンホテップ!」と神像が動き出したりする。 作者は山川そうじ先生。 一晩中考えて、「少年王者」というタイトルを思い出す。 しかし、「太平原児」の方がとうとう思い出せませんでした。 |
84:
アカデミー賞やりましたね!
[2009-02-23 22:23:00]
83です。
小松崎茂先生の作品を、ネット辞書等で調べてみましたが、よく分かりません。 舞台は、当時流行の西部劇。記憶が正しければ少女はジェーン?という名前。 賢く可愛くどこまでも明るい、そして物語の謎をひっぱる魅惑の少女。 大変面白い話で、読み始めれば続きが気になって仕方ないのに、最後がどうなったのかを知りません。 ジェーンは何者だったのか? 最終回を見逃した話はいろいろありますが、これは気になる作品の最たるものかも?。 |
85:
S30代
[2009-02-23 22:51:00]
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86:
匿名はん
[2009-02-25 21:06:00]
大阪から夜行列車でのり、青森までに車内でトランデスターラジオで3回聞いた歌、
一週間後、大阪に帰るとテレビでやっていた「高校三年生」昭和39年頃だったかな? 帰途、函館のジャズ喫茶で「坂本九」のそっくりさんを見た。 その後テレビのものまね番組の人気タレントになっていた。 大阪駅19時頃出て、翌日の夕刻17時頃青森、翌朝9時に札幌到着。 関西弁、通じない場合多くて、内地の人かねといわれた。 |
87:
匿名さん
[2009-02-26 17:17:00]
昭和30年代生まれ。
パソコンは難しくて覚えられないし、携帯電話もメールくらいしかできない。 DVDも使い方わからなくて、いまだにGコード予約。 次から次に新しい物ができるけど、何一つ、ついていけない・・・ 取説も面倒で読みたくないから何も覚えられない。 私は、もうすでに**ているのかもしれません。。。 新しい物なんていりません。 |
88:
匿名さん
[2009-02-26 17:36:00]
87さん
レス、どうやってアップされたのですか。 まさか念力で? |
89:
匿名さん
[2009-02-26 19:49:00]
テレビ、白黒でも面白かった。
『逃亡者』『アンタッチャブル』etc 「再放送」ってネエンダヨネ? |
90:
S30代
[2009-02-26 20:24:00]
はがきで当てよう車と1万円!!
> 「再放送」ってネエンダヨネ? NHKのBSで奥様は魔女とか、宇宙大作戦などを放送しているので、 なくはないかも |
91:
匿名さん
[2009-02-26 20:50:00]
亡くなったオヤジ、
麻雀やってるとき、よく聞こえたことば 「またも負けたか八連隊、どこまで続くぬかるみぞ♪♪」 意味不明も、命日で思い出した。 |
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92:
周辺住民さん
[2009-02-26 22:13:00]
子供の頃 二等兵物語 などの兵隊者観たけど、軍隊でもいじめって有るんだなと
思ったね 軍服や靴を取られたり、虐められたり、大人になっても悲しいものだと 小学校くらいで学んでしまいました 年の離れた兄には良く映画を観に連れて行って貰った 軍隊の罰で自転車漕ぎは子供が観てもかわいそうだなと思った 世渡りの上手い人と下手な人 喜劇は悲劇だなと.... 月光仮面とか白馬童子 風小僧 などの映画も観たし、日活の映画なども観ました 高倉健と江利チエミが結婚した頃で、共演していた映画を観ましたね 明るいコメディでした |
93:
h_imagine
[2009-02-27 22:11:00]
表題の中にある「チロリン村とくるみの木」
NHKなのに?? 保安官の「レッド!レッド!人参レッド」は「ブラックバット」に撃ち殺された。 そう言えば、少年探偵団の小林少年がピストル持っていたが。 当時は漫画の主人公の少年が平気で拳銃をブッパナシていたな。 不思議な時代。 貧乏は好きでは無いので、今の方が遥かによいが、 最近は全てに異常に潔癖症。 全てに道徳やマナーかざすのに、まともに具現化する人が殆ど居ない。 エコを叫びつつ、高断熱、高気密で、自然と遮断して空調、床暖房、24時間換気で電気使い放題。(昭和30年代に壁にコンセント有った家が日本に何軒有ったろう) ベランダに洗濯物や布団を干すな!と家で乾燥機付き洗濯機とか。乾燥機とか。 隣や上の音が煩いなんて、下宿や長屋、2軒続きの文化住宅も音なんか筒抜けだったのに、今は他人の音でノイローゼ? 今も不思議な時代です。 |
94:
周辺住民さん
[2009-02-28 12:25:00]
小学校卒業頃、脱脂粉乳での給食が始まった
それまでは冬季は母親が集まって味噌汁とか簡単なおかずなどを作ってくれていた 普段なにも美味しい物がないご時世、美味しかったな 暖かいカレー汁、豚汁など マカロニサラダなど 暖飯器もあって冬はすごい臭いだったな 我が家は弁当が寂しかったが... 脱脂粉乳の給食が始まったら、そういう手料理も無くなった コッペパンと脱脂粉乳 おかずの給食は一大革命だった パン食なんてしたこと無かったし.... 中学では洋食の食べ方を本で習った 実際に食べたわけでなく ナイフとフォーク、スプーンの使い方 置き方など 食べ方を本で勉強するのって無理が有ったよな 東京オリンピックの頃ですね |
95:
匿名さん
[2009-03-01 17:38:00]
昔の子供語録
馬鹿 馬鹿 チンドンや お前の母さん デベソ「メロデイーに合わせて歌うのだ」 アッカンベー「目の下を人差し指で押しながら下げる」 霊柩車が来たら親指を隠す「ずいずいずっころばしの握りをする。」 怖いもの→地震 雷 火事 親父 |
96:
匿名さん
[2009-03-03 22:53:00]
3月3日はひなまつり
1枚の写真 おひなさまが飾られた床の間 お母さんと私 綺麗な着物を着ている。 器量の悪い私は馬子にも衣装 嬉しくて無邪気に笑ってる。 お母さんありがとう 自分の子供には着物も大きなおひなさまも買ってあげれなかった。 何もかもかなわなかった。一生親を超えることもなく。 |
97:
匿名さん
[2009-03-05 00:33:00]
着る物は、高いからめったに買わず、いつも母が私とおそろいのワンピースを作ってくれた。
母は、私の毛糸のパンツも編んでくれた。 母は、どうして何でも出来たんだろう。 母は偉大ですね!! |
98:
h_imagine
[2009-03-12 03:18:00]
確かに母はスーパーウーマンだった。
和服を解いて、洗い張りして、再度縫製していた。 自分と姉妹のセーターは全て手編みだった。(毛糸の玉造りを手伝わされるのが常) 足踏みミシンでワイシャツも作ってくれた。 「リリアン」みたいな何とか縫いで親父のネクタイも作っていた。 靴下に白熱電球入れて、ほころびを修理してくれた。 障子の張替えが上手だった。 庭で自分たちの髪をバリカンで刈ってくれた。(坊主にしたのは大学の学園祭のモヒカン刈りの後が始めて) 中学卒業まで、親父の給料日後の銀座のデパート以外、外食は一切無かった。 電球も替えられない親父に代わって、家の事は何でもやっていた。 一緒にキャッチボールをしてくれた。 擦り傷は唾で治してくれた。 タバコの空き箱で「コップ敷き?」を造っていた。 趣味で始めた革細工がいつの間にか月謝を取って生徒に教えていた。 木目込み人形にはまっていた。 糸巻いてカラフルな「蹴鞠?」を何個も作っていた。 ある日、突然、鎌倉彫を始めた。 何時の間にか仏像彫刻に変わっていて、親父の趣味の油絵と合わせて時々「二人展」画廊で開いていた。 そして3年前に亡くなった。 |
99:
h_imagine
[2009-03-12 05:31:00]
名前の通り「暇人」なので連続で失礼。
東京の大森でしたが「トレーラーバス」(今の大型トラックみたいに運転席が別になっている)や トロリーバス(架線から電気を取る)が走っていました。 トロリーバスなんて電気自動車!!今で言う「エコ」です。(架線が景観上は汚らしいけれど) |
100:
匿名さん
[2009-03-12 08:38:00]
トロリーバス緑 都電 黄色 飛鳥山で見た 早稲田はまだ都電あるなあ
東急世田谷線も今でもレトロだなあ |
101:
匿名さん
[2009-03-12 12:01:00]
なにこのほのぼのとしたスレッドは。
懐かしさと同時に希望が見えるんだよなー。 このスレッドには。 当方上ばかり見て歩いてきた30数年、 それなりに楽しい人生を歩いてきたつもりだったけど 最終的に求めているのはもしかしたらこういう世界なのかも。 何もなくても希望があれば頑張れるんだよなー。 |
そうですか。そうやって格差は進んだのですね〜。
しかし、いついなかる時も変わらない長屋暮らしの我が家って一体。。。